平川与四右衛門が小川島に渡った理由

 牛津映画、面白くなってきました。呼子町小川島の区長に尋ねましたら、与四右衛門が元禄2年(1689)に製作した観音座像は、今も島の観音様に大切に祀られているそうです。

  与四右衛門が頭角を表し出した元禄時代。小川島は1595年に長崎から壱岐を経て伝わった捕鯨によって、繁栄していました。

 

 島の長は呼子の中尾組よりも早くこの島に渡り、クジラ組を作った深沢某。1689年の観音様建立に合わせて、島の長から観音座像発注が与四右衛門に届きます。2年前から与四右衛門が唐津の各地に出向き、製作した石仏が大評判になっていたからでした。

 

 同時期、日本は空前の黄檗宗ブーム。江戸時代初期に長崎に伝わった黄檗宗は、大名の庇護もあり、繊細で華麗なこの宗派の仏像美は、全国の仏像建設に大きな影響を与えます。まさに石仏づくりのルネッサンスを迎えるのです。長崎に押し寄せ元禄時代に花開く黄檗宗文化は、街道と牛津川を通じていち早く牛津に伝わり、若き与四右衛門の石仏づくりにも強い影響を与えたのです。

 

 そして、小川島のイソとの出会いが作風を大きく変え、天才石工の名を獲得するきっかけになるのです。

 

 しかし、ふたりは結ばれることはありませんでした。イソの面影を心に封印し、与四右衛門は石仏を彫り続けるのです。   つづく